環境を変えたのに、イライラが募る

リアルで人に会い、名前と顔を認識した途端にイライラする。
思えば幼い頃からそうだった。
同級生や先生に対して、少しでも嫌なところが見えるとその人に対してイライラしていた。
「腹を立てる」が理に適ったものだとしたら、自分の「イライラ」は理不尽だとどこかで感じていて、イライラする度にこんなことを感じるなんて良くない!我慢しなきゃ!と強引に蓋をしていた。

一時Facebookをやってみたことがあった。
ログインして「友達」の日常が流れてくるだけで不快になった。
あくまでも自分の問題で、投稿した相手からしたらイチャモン以外の何物でもない。

年々、イライラが自分の中で処理できなくなってきて外に吹き出すようになった。
最もな形をとって他者にぶつけるようになった。例えば社会が変だとか、仕事をする上でおかしい、とか。
ただ、そうやって解消したつもりでも苦しくなる一方だった。
そんな時に読んだのが『キレる私をやめたい』だった。

田房永子さんの本と出会ったのは図書館だった。
コミックエッセイを紹介する棚があって、同作者の別作品『母がしんどい』が目立つところに展示されていた。
その本が刺激的だったから名前を覚えていたのだろう。

『キレる〜』に我慢しなきゃ!の原理をよく表した一コマがあって、そうそうこれこれ!と首を縦に振った。
自分はイライラする事象だけ気にしていたけれど、その根底を探るところまで辿り着いていなかった。
そもそも何故ここまでイラつくのだろう…と掘り下げてみると意外な正体が見えてくることがある。

自分の場合、相手自身にイライラするのはなんだか違う。
相手の行動にイライラ、は半分くらい納得できる。しかしもう半分は違和感がある。
「相手がした行動をすることができない自分にイライラ」しているのでは?という考えには腑に落ちるものがある。ということが分かった。

例えば、SNSで友達同士コメント合戦をしたり、
迷惑をかけても気にしない!(というか忘れてる?)とか恋人との充実した生活をネットに流すとか。
自分で書いてて僻みの固まりですわ……。
何故自分はそれらができないのか、何がそれを食い止めているのか。「何故」に目を向けることは、結構しんどい。