我慢の名人?

気づかないうちにしていることの一つが我慢だ。

子どもの頃、月に1回くらい外食をすることがあった。
「何が食べたい?」と親に聞かれるのだけどそれは表面上であって、実際は親の中で答えが決まっていた。既に行ったことのある近場のラーメン屋だ。

大人になった今思うと、確かに家計を考えるとラーメン位の価格がせいぜいだったのだろう。
新しい場所に飛び込むのを億劫がる人が、家から離れてしかも初めて入る店に子連れで行くと、多くの精神的エネルギーを使うことも想像できる。
平日仕事に行くのに疲労困憊な人が休日まで気力を使い果たすのも避けたかっただろう。

分かってはいても、そういう大人になりたくないなあと思って生きてきた。
数十年経った今、食べ物に関しては我慢せず「これが食べたい」「これを食べよう」と思えるようになった。
一人分なら、自分の収入の範囲とはいえ自身で選んだものを食べられる。
食べ物は、生活で身近だったり元々食べることが好きだから意味のない我慢をクリアしやすかった。
他の物事はというと我慢を抜け切れていない。おまけに、自覚するのはよっぽど「堕ちて」から。
物欲、食欲はまだ解決しやすいのだけど、こと人間が絡むとじわじわと我慢を積み重ねている。
なんでそれを我慢するの?逆ギレされて迷惑!なんて声が頭の中で叫んでいる傍らで、息を吹きかけるように静かに「ここは我慢するところよ」と語りかける存在がいる。
悪霊の類ではないと思うが。

我慢して何も言わないのも、我慢していることを現実に喚き散らすのも本質は同じ問題だと指摘している文章を読んで納得した。
思春期に愛読した加藤諦三の著書は、我慢する心の根底を知るのにもってこいだったな。
タイトル数が多いのでその時に合った状況の題名を探して読むのが常である。
氏の本に共通するのは、問題は掘ることができるけれど解決策がほとんど書かれてなくて、読んで原因が分かり落ち込み、その後の解決策をどうしよう!?となっているのが現在です。